キッチンのダンボール箱の中、ぬれ新聞紙を取り除くと、マッドクラブが、今起きたかのようにかさりと動きました。大きな爪を持つ赤みを帯びた泥蟹です。
わざわざダーウィンから手荷物で運んできたというそれを、生きたまま調理するのかと、わたしはどきりとしてしまいました。
「いや、冷凍庫で1時間くらい眠ってもらうんだ」
食いしん坊を自認していても、わたしは生きたままの魚介類の調理が大の苦手なのです。
「僕も駄目。だから静かに仮死状態になってから、ね」 はあ、なるほど。
ぶつ切りにした蟹を中華鍋で豪快に炒めたそれは、卵を溶かし込んだカレーソースで有名なタイ料理でした。
独特の甘味をもつどっしりとした肉は、とろりとした蟹味噌と卵にからまり、食卓には無言の賞賛がただよいます。シャンツァイの香りに鼻をくすぐられながら、わたしたちは指を黄色に染めて食べ、飲み、そして料理好きな彼が、これから次の派遣先ナイジェリアでどんな食を追求するのか、と笑いました。
「マッドクラブは捕れないだろうなあ」
食卓の皆とグラスを合わせ、まだ甲羅にはりついた肉をせせっていたわたしをうながして、「美味しいものが常に幸福をもたらす、罪深き我々に乾杯。そして、わざわざダーウィンからその幸福を運んできたマッドクラブに乾杯」
わたしの微笑みを確かめながら優しいため息をもらした彼は、それから1週間後にオーストラリアをたちました。