固く静かなアボカドの実

固く静かなアボカドの実 垂涎の日々
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「こんにちは、C*****です。はじめまして。」

オーストラリア訛りの日本語ですが、はっきりとした言葉が背中にふってきたとき、わたしはまだ放課後のオフィスで授業の整理をしていました。振り向くと、真っ白な髪の背の高い老人が、優しい微笑みを頬に浮かべて立っています。

 

今年の初めまで、この学校で働いていた日本語の先生でした。直接は知らないものの、彼の妻が数ヶ月前に長患いの末亡くなったこと、そして彼も健康をくずして長期に渡る休暇をとったことは知っていました。そのために、この公立高校の仕事がわたしに回ってきたからです。そのまま退職するであろうことも、もうひとりの日本語教師から聞かされていました。

 

持ってきた大きな箱の中には様々なワークシートが入っています。「これからの授業に使えるかもしれないから、どうぞ」と言って、彼はその書類の山の上に、握りこぶしほどの緑色の実をそっと置きました。

 

「これはね、まだ固いけれどアボカドなんですよ。わたしの庭に生っているんですが、このまま1週間から10日待てば柔らかくなります。もう食べるひともあまりいないんで、沢山持ってきました。ひとつどうぞ。」

 

見ると、一緒に持ってきた籠には山のように深い緑色のアボカドが盛られています。お礼を言うと、またニッコリと微笑み、隣の部屋の「元同僚たち」と話をしにわたしのそばを離れました。

 

開け放たれたドアからは、妻をなくしたことの寂しさ、諦め、そして毎日がどんなに退屈か、ということを話す彼の声が、とぎれとぎれに聞こえてきます。アボカドの実が熟すのを毎年夫婦ふたりで見守ってきたのでしょうが、今年はもはや寂しさをつのらせるだけなのかもしれません。

 

熟す前に全て切り取られた固い実たちは、とほうにくれた彼の「これから」を暗示するごとく、わたしのオフィスの隅に置き忘れられた籠の中から、固く静かな沈黙をただよわせていました。

 

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